世界にたった一人、私が書けなくなってしまったことを教えたくない人【神野藍】連載「揺蕩と偏愛」#17
神野藍 連載「揺蕩と偏愛」#17
早稲田大学在学中にAV女優「渡辺まお」としてデビューし、人気を博すも大学卒業とともに現役を引退。その後、文筆家・タレント「神野藍」として活動し、初著書『私をほどく〜 AV女優「渡辺まお」回顧録〜』を上梓した。いったい自分は何者なのか? 「私」という存在を裸にするために、神野は言葉を紡ぎ続ける。連載「揺蕩と偏愛」#17は「世界にたった一人、私が書けなくなってしまったことを教えたくない人」

◾️真っ白な原稿から逃げ出した夜
カーテンの隙間から光が漏れ出してくる。車の走行音が耳に入ったとき、徐々に街が起き出すのを感じた。暫く放置していた携帯の画面に目をやると時刻は朝5:30と表示されていた。こんなにも人と話し込むことがあるのか、と少し笑ってしまった。そういえばこんな夜を超えたのは2度目。そして1度目も同じ相手だった。以前とは関係性も置かれている立場も随分遠いところにきたはずなのに、またこうして必要なときに目の前にひょいと現れてしまうらしい。
長い眠りについていた。言葉を紡ぎ出すことが私にとっての救済だと信じていたのに、気がついたら一面に広がる砂漠の中に立っていた。どこまでも広がっているけれど、そこには何もなく、歩いていく道も帰り道も示されていなかった。私の足跡でさえ、すぐに風がさらっていく。
初めは「どんなときでも書いていれば」と思っていたが、緩やかに速度が落ち何もできなくなっていた。欠片のような何かをぼろぼろと生み出すこともできず、真っ白な原稿から逃げ出した。ついに照らしていた光は私を見放してしまったらしい。暗い夜が私を侵食していった。
世界にたった一人、私が書けなくなってしまったことを教えたくない人間がいる。(仮に名前をKと置いておく。)忘れられないことも、覚えすぎることも、ときに呪いになる。ふとした瞬間ーー特に何も手が進まないときに名前が頭に過ぎるだけで、砂の上にかすかな影を落とした。憎もうとしても憎めない人。そして私のことも、神野藍という人間のことも知りすぎてしまっていた。
うだつのあがらない日々の中で、ぼんやりと画面を眺めているとKの投稿が目に留まった。どうやら何かの媒体で書いた記事らしい。「直接リンクを貼り付ければいいのに」なんて心の中で文句を漏らしながら、一つ一つサイトを辿っていく。
一文目で時が止まった感覚に陥った。先ほどまで部屋の中で流れていた音楽が自然と耳から排除された。全てに目を通した後、ようやく身体の中に溜まっていた二酸化炭素を一回で吐き出した。ぽっかりと空いた穴にひんやりとした痛みが広がっていく。それは癒しではなく、静かに滲みる消毒液のようだった。
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✴︎目次✴︎
はじめに
#1 すべての始まり
#2 脱出
#3 初撮影
#4 女優としてのタイムリミット
#5 精子とアイスクリーム
#6 「ここから早く帰りたい」
#7 東京でのはじまり
#8 私の家族
#9 空虚な幸福
#10 「一生をかけて後悔させてやる」
#11 発作
#12 AV女優になった理由
#13 セックスを売り物にするということ
#14 20万でセックスさせてくれませんか
#15 AV女優の出口は何もない荒野だ
#16 後悔のない人生の作り方
#17 刻まれた傷たち
#18 出演契約書
#19 善意の皮を被った欲の怪物たち
#20 彼女の存在
#21 「かわいそう」のシンボル
#22 私が殺したものたち
#23 28錠1シート
#24 無為
#25 近寄る死の気配
#26 帰りたがっている場所
#27 私との約束
#28 読書について1
#29 読書について2
#30 孤独にならなかった
#31 人生の新陳代謝
#32 「私を忘れて、幸せになるな」
#33 戦闘宣言
#34 「自衛しろ」と言われても
#35 セックスドール
#36 言葉の代わりとなるもの
#37 雪とふるさと
#38 苦痛を換金する
#39 暗い森を歩く
#40 業
#41 四度目の誕生日
#42 私を私たらしめるもの
#43 ここじゃないどこかに行きたかった
#44 進むために止まる
#45 「好きだからしょうがなかったんだ」
#46 欲しいものの正体
#47 あの子は馬鹿だから
#48 言葉を前にして
#49 私をほどく
#50 あの頃の私へ
おわりに



